阿吽香

阿吽香 物語

「好きな人が出来たの。」

席についてすぐに話を切り出す私を、彼は静かな目で見ていた。周りは騒がしくなく、かといって静寂でもない。緩やかな喧噪と、暖かなコーヒーの香りが周囲を満たしていた。

しばらく沈黙が続いていたが、この小さな喫茶店の唯一のウエーターが、沈黙を邪魔しないように2人が注文した品をそっと机に置いた。それが合図になったのか、彼はコーヒーに口をつけ話し始めた。

1つ年上の彼に告白されたのは、この喫茶店だった。立ち上がれば全ての座席が見渡せるくらいの広さ。学校の教室よりも狭い。
当時、お互い気持ちには気づいていたが、どちらも言い出せずにいた。そんな時、コーヒーの香りに釣られて入ったこのお店で、突然告白された。あとで彼に聞いたら、「自分でも何で言えたのかよく分からない。あの店の雰囲気に押されたんだよ。」と言って笑ってたっけ。そんなわけで、彼も私も初めて異性と付き合うことになった。

その日以来、私はこの喫茶店が好きになり、よく利用するようになった。大学の課題も閉店間際までやっていたし、次の講義まで時間がある時も本を読んだりして、ひとりで時間を過ごしていた。彼は私との待ち合わせの時にしか利用していなかったが、それでもこの店のコーヒーは美味しいと言ってくれた。
お互いに距離が出来始めたのは、彼が卒論の研究に没頭し始めた2か月前くらい。研究で忙しいのは分かっていたから、邪魔するのも悪いと思い、私から積極的には連絡を取らなかった。時々来る彼からの連絡は嬉しかったが、心奥の寂しさを埋め切れるものではなかったみたいだ。別の男性に魅かれるのは時間の問題だったかもしれない。

机に置かれたカップから立ち昇る、湯気と共に鼻腔をくすぐる奥深い香りが、私を今に引き戻す。

「しばらく前から、君の心が僕に向いていないことは分かっていたよ。ここで向き合って会話しても、何だか遠くを見てるみたいだった。」

彼はひと息にそう言うと、再びコーヒーカップに手を伸ばした。

「でも原因は分かってる。僕が大学の研究に没頭しすぎて、君を蔑ろにしてしまった。正直デートらしいデートもしていない。君には本当に申し訳ないと思ってる。なんとか関係を続ける事はできないかな。」

そう言ってカップに口をつける。

彼は理系の人間らしく、何事も合理的なひとだった。デートの計画も主導で進め、時間も逆算してスケジュールを作る。私が遅刻してしまった時は、事前の計画ではなく用意していたプランBを実行したときには驚いた。

私の周りに揺蕩っている匂いが、胸の奥の想いを言葉にかえて引き出す。

「・・・ごめんなさい。好きな人が出来たの。」

私ははじめと同じ言葉を繰り返した。心臓が早鐘を打っている。彼はどう思っただろう。自分に愛想を尽かした浮気女?別れるために好きな人が出来たと言う嘘つき女?

しばらくの沈黙は、周囲の音が2人の間に降りてくる場を与えた。別席の会話が聞こえてくる。けれど小さな音で流れるBGMと混ざり、内容までは聞き取れない。彼の本当の考えは分からないけれど、私たちの関係が終わっている事は察していたみたいだ。彼は「わかった」と小さく呟くと、伝票を掴み、席を立って出て行ってしまった。お店に入ってから10分も経っていない。冷たくも感じるが、理解が早いというか、彼らしい。

私の恋は終わりを告げた。カップに手を伸ばし、ゆっくりと口に運ぶ。コーヒーの味は苦みを増し、香りも重たく感じた。大好きなコーヒーが、初めて不快なものに思えた。この場の雰囲気も緩やかな喧噪に囲まれていることも辛い。

「お客様、おかわりはいかがでしょうか。」

ウエーターが優しく声をかけてくれる。この狭い空間なら、会話は聞こえなくてもどんな状況くらいか分かっているのだろう。大丈夫。コーヒーは嫌いにはならない。この喫茶店だって大好きなままだ。だって・・・

「はい、お願いします。それと――」

私の恋は、ここから始まる。

「お名前、伺ってもいいですか?」

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